2013年11月22日(金) 第203号 『大学での勉強ってほんまに面白いんです』

南国宮崎もすっかり寒くなってきました。

朝に吐く息は白く空に吸い込まれていき、夜には凜とした空に無数の星が輝きます。

雪が降ることは滅多にありませんが、宮崎に夏のイメージを抱いていた県外出身学生は、意外と寒い宮崎の冬に驚きます。

この時期のMMUは、大学祭やスポーツデイ等の学生行事も一段落。学生は本分である学問に集中しているはずです。

 

 

現在、「授業の参観を通じて、指導の方針と内容・教授法等の共有の充実を図る」ことを目的として、教員相互の授業参観が行われています。職員も見学が可能だということなので、高校生にMMUの教育内容を説明する機会が多い学務課コバヤシは、初心に返って大学の授業をいくつか受けてきました。

 

*******************************************

 

まずは、渡邊先生による「日本文化論」。入学間もない1年生を対象とした講義です。この日のテーマは「辺境から眺める3――奄美・沖縄の文化」。憲法が前提としている平和が沖縄において欠落している現状を問題提起として、沖縄の植民地化と差別の近代史や貧困と基地移設の問題等の、現在の基地問題を考えるための視座が提示されます。

 

大学生であれば、高校までの社会科の授業やニュース等でこれまでに一度は触れている問題だと思いますが、渡邊先生は沖縄県出身のアーティストの作品やドキュメンタリー映像等の沖縄県民の生の声や表現を随所に用いて、「ああ、その問題はもう知っている」という学生の心の中の安全弁を次々とはぎ取っていきます。そこで求められるのは、当事者である日本人として主体的に考える姿勢です。

 

2004年に米軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落した事件で、当時アテネオリンピックの開催期間であり、マスメディアの取り上げ方がとても小さかった事例が説明され、「日本のマスメディアの非民主性、不平等性を認識し、『何が語られたか』『何が語られていないか』を自分で判断できる力を、これからの社会を作っていく大学生として身につけてほしい」と語る渡邊先生の講義はとても熱く、普段の温厚でチャーミングなイメージとのギャップが新鮮でした。

 

********************************************

 

続いて、阪本先生の「出版文化論」。こちらは3・4年生が対象です。大衆娯楽雑誌というメディアを切り口として、戦後の日本文化の変遷をスリリングに読み取っていきます。この日のテーマは「『スター』としての三島由紀夫」「加藤秀俊『中間文化論』を読む」。

 

私の中の三島由紀夫のイメージといえば、ボディビルに傾倒しておりショッキングな割腹自殺を遂げた文学作家という程度だったのですが、阪本先生は当時の大衆娯楽雑誌『平凡パンチ』の記事や三島由紀夫主演映画『からっかぜ野郎』での演技演出、切腹事件の記録映像、三島由紀夫を取材していた雑誌記者の手記などをもとに、三島由紀夫が当時の大衆社会状況においてスーパースターとして受容されていた事実を明らかにしていきます。

 

また、加藤秀俊の『中間文化論』を手がかりに戦後の日本文化を理解していく過程で、政治論や国家論を中心に議論された「高級文化中心の段階」、政治への絶望から多くの大衆娯楽文化が生まれた「大衆文化の時代」、これらの高尚な精神と娯楽的志向の中間的形態である「中間文化の時代」という位置づけと、それぞれの時代に対応する雑誌メディアが存在していたことを学びました。

 

講義を受けていると、知識の扉が四方八方に開かれていて手招きされている錯覚を覚えます。この日は戦後から1970年にかけての様々な事象を学びましたが、2013年の現在を生きる自分にどのようにつながっていくのか、全15回の講義をすべて受講したい衝動に駆られました。

 

************************************

 

次に住岡先生の「道徳教育」。教職課程を履修する3・4年生が対象の、小講義室でのアットホームな講義です。住岡先生が学生の名前を1人ずつ呼んで出席を確認するスタイルも少人数ならでは。

 

講義の前半は高等学校学習指導要領の読み込みと確認です。教員採用試験の教職教養対策も念頭に置いた解説がなされています。さすが「教員になる」という進路目標が明確な学生たち、集中している様子がひしひしと伝わってきます。

 

後半は、学生による道徳の模擬授業。住岡先生はここで教卓を降りて、模擬授業担当学生とバトンタッチ。「いじめ」をテーマに、学生自身が考えてきたプランで授業を行います。その他の学生たちは、授業の生徒役であると同時に、様々な観点から授業の評価を行います。模擬授業後には、「理想的な道徳授業」をめぐって、学生たちから様々な意見が飛び交い、住岡先生が議論を整理していきます。ゼミ的な活発さが印象的でした。

 

*************************************

 

最後に、中別府先生の「哲学・倫理学概論」。2年生対象の講義ですが、4年生や市民聴講生の方の姿も見えます。この日のテーマは「よいというそのこと」。「ソクラテス」「プラトン」「クリトン」等いかにも難解そうな固有名詞が並ぶレジュメは9ページにも及び、もはや小冊子です。

 

講義は中別府先生と学生の対話を中心に展開していきます。先生の問いは抽象的かつ難解で、時に学生は熟考のあまり沈黙の底に沈みます。まるで教室全体が考え込んでいるような独特の雰囲気が生まれますが、クイズ番組の回答者のような焦燥感は皆無です。先生が問いを変え、問いに対応する現代日本社会の具体的なトピックを示し、やがて学生の中で問いの内容と内面化されていた知識が結びつき、学生は自身の言葉を紡いで答えを生み出します。先生と学生の対話は教室全体で共有され、ゆっくりと授業は進行していきます。

 

すると、講義の終わりには、あれほど難解だったレジュメの内容がすっと体の中に入ってきます。「無批判に語らない」「毎日問い続ける」「自明の理を受け入れて語らない」「いつでも、どこでも、誰にでも当てはまることのみを語る」という哲学的態度が語られたとき、この講義が文化的境界を越えて学ぶMMUのカリキュラムの中に存在する意味が理解できた気がしました。

 

*******************************************

 

4つの講義を受け終えて、知的な刺激を存分に受けて脳味噌がフル回転した実感とともに、改めてMMUで学ぶこと、その学びをこれからMMUで学ぼうとする高校生に伝えることについて考え込みました。

 

 

日本の思想家であり武道家でもある内田樹さんは、「学び」について以下のように説明されています。

 

 

「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。

 「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。

――ウェブサイト「内田樹の研究室」

 

 

今回私が受講した講義は、薬の効用や道路交通法の知識のように、はっきりと「有用性や意味がわか」るものではありません。しかし、これらの知識の集積が、将来の自分にとって、仕事のみならず人生全般において「死活的に有用で有意」であるという予感をビシバシと感じさせるものでした。

 

あえて言語化するなら、白紙の地図の中で自分の現在地のみが分かっていて、学んでいく中で現在地周辺の地図が書き込まれていく、そんな感覚です。大学卒業までに、現在地周辺の地図はかなり詳細になるでしょうが、まだまだ地図には白紙の部分が残されている。だから一生地図を書き込み続けたいという欲求が生まれます。

 

 

そのような性質であるがゆえに、高校生にMMUの教育内容を説明する際には大きな困難が伴います。かつて学生であった私も、大学での学びを経た後に「そういえばあの時学んだことが現在に生きているなあ」と、その有用性と有意性を事後的に実感しているからです。しかし「学んだ後にわかるよ」では入試広報として失格ですので、学務課職員として高校生にわかりやすく説明できるように、これからも研鑽を積んでいきたいと思います。

 

 

それにしても自分の今の仕事や人生はどうだろうか。批判的な検証をサボっていないか?安易に前例を踏襲していないか?毎日を自明の理という惰性を受け入れて生きていないか?問い続ける姿勢を忘れてやしないか?掲げる理念に普遍性はあるか?独りよがりな理念になってはいないか?逆に理念そのものを妥協してはいないか?

 

 

デスクに戻って自身の哲学的態度をぶつぶつと検証する学務課コバヤシがお送りしました。