宮崎城を歩く

丘陵に築かれた 堅牢な山城

  • 宮崎城って何?
  • 何があるの?

柏田地区から見た、宮崎城

往時を偲ばせる登城路

曲輪のひとつ、服部城に残る土塁と石塔

宮崎市内にお城があった!

 宮崎城は大淀川左岸の現在の宮崎市池内町と上北方にまたがる、標高93mの丘陵上にある山城です。  歴史にはじめて登場するのは、南北朝時代のはじめ、建武2 (1335) 年12月のことです。足利尊氏が建武政権に反旗を翻したため、後醍醐天皇は諸国の武士たちに尊氏を討つよう命じます。これに応じて宮崎荘(現在の宮崎市上北方・下北方町・池内町・南方町付近)で挙兵したのが、同荘の荘官(荘園の現地管理人)とみられる一坪六郎入道慈円です。彼が立て籠もった「宮崎池内城」が宮崎城のはじまりとされています。一坪慈円は大塚の土持宣栄に攻め滅ぼされ、以後土持氏の一族が宮崎城付近を支配していたようですが、室町時代に入ると都於郡城(西都市)を本拠とする伊東氏の支城になりました。  天正5 (1577) 年に伊東義祐を追放し、島津義久が日向国を支配するようになります。同8年、島津義久は重臣の上井覚兼を宮崎城主に任命します。彼が書いた日記が『上井覚兼日記』(国指定重要文化財)で、宮崎城主としてどのような生活をしていたのか詳しく書かれています。城内には覚兼の家族が暮らす館があり、茶室や毘沙門堂、蒸し風呂も造られていたことが分かります。

宮崎の関ヶ原、悲しき同士討ち

 天正15年(1587)5月、島津義久が豊臣秀吉に降服すると、宮崎城周辺は県領主(現在の延岡市)となった高橋元種領となります。慶長5 (1600) 年、関ヶ原の戦いがはじまると、東軍についた飫肥城主伊東祐兵の家臣稲津掃部助重政は、西軍についた高橋元種の支城であるこの城を攻撃し、城主の権藤種盛は討死します。しかし、城が落ちた10月1日の時点で、高橋元種は東軍に寝返っており、結果として同士討ちになってしまいました。  その後も宮崎城は高橋家の支配下にありましたが、元和元年(1615)の一国一城令によりこの城も廃城になり、高橋家の支配の拠点は下北方の代官所に移っていきました。  現在、宮崎城跡は国の史跡指定を目指して、宮崎市教育委員会による調査が進められています。

宮崎城

激動の歴史を伝える

直純寺

権藤一族ゆかりの寺

八龍神社

雨乞いの神様

上井覚兼と南蛮犬

宮崎城主であった上井覚兼は、肥前のキリシタン大名・有馬晴信より送られた南蛮犬をたいそうかわいがっていました。城下を散歩したり、柏田の盆踊りを楽しんだり、瓜生野のお寺のお風呂に呼ばれたり、どこへ行くにも一緒。狩りで獲物を追い詰めるのも南蛮犬の役目でした。しかしある時、豊臣秀吉の弟秀長から南蛮犬の引き渡しを求められます。どうしてもこれを受け入れられなかった上井覚兼は、とうとう宮崎城から追い出されることとなってしまいました。