2013年9月6日(金) 第192号『檸檬』

私の生家は、今では珍しい藁葺き屋根の木造家屋でした。

 

およそ築100年の家だったため、ところどころ痛んでいて、大工だった父が癇癪を起こしては壁を殴って穴をあけ、自分で直していました。

その家はすでに取り壊されていて、今は空き地になっているのですが、私の原風景の一つとなっています。

そのせいか、見知らぬ道を散歩しながら薄暗い路地裏を見つけては入りこみ、そこに建ち並ぶ家々を眺めるのが好きだったりします。

また、街灯に群がる虫を見て、妙に安心したりもします。

 

梶井基次郎の『檸檬』の中に、次のような一節があります。

 

何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。

風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、

汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。

雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――

勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。

 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか

――そのような市へ今自分が来ているのだ――

という錯覚を起こそうと努める。

 

(この一節、実のところ『檸檬』を読んだのではなく、つげ義春の漫画を読んで初めて知りました。)

 

 

さて、4月から本学で働き始めてから、私は大学構内にもそのような風景がないものかと、時々散歩をしています。

 

 

緑豊かな木々から溢れる木漏れ日。

まぶしい。

 

 

手入れの行き届いた花壇に咲く花々。

まぶしい。

 

 

 

学生たちの明るい声。

夏休みなので誰もいないけれど。

 

 

そんなキャンパスには、やはり「見すぼらしくて美しいもの」はないのですが・・・

こ、これは!

 

 

ここは学生たちが凌雲祭の準備を行う「みんなの家」です。

11月に行われる凌雲祭に向けて、今年もすでに準備が始まっているようです。

(「みんなの家」の歴史についてはこちらに詳しく紹介されています。)

敷地には無数のペンキの跡が。

 

 

今年で20周年を迎えた本学は、大学としてはまだまだ若いのかもしれませんが、これら無数のペンキの跡から、かつてここにいた学生たち、そして今いる学生たちの、血と汗と涙が染み込んでいて、大学の歴史の一部となっていることがうかがえます。


夏の終わり、蝉の声もまばらに聞こえる中、しばらくこの景色を眺めていました。

 

 

そして、職員になってまだ半年も経っていませんが、次第にこの大学が好きになり始めているところです。

 

 

 

そして、仕事で少し疲れたときは、企画総務課のフクシマ補佐の机上にあるカレンダーを眺めて癒されています。

わん。

 

 

さて次回は、

あたふたしながら仕事をしている私を励まそうとしてか、「9月3日はドラえもんの日ですよ」と、どう返答したら良いものか困ることを優しく呟いてくれるアラキさんが担当です。

お楽しみに!